略歴

1972.1
群馬県笠懸村(現・みどり市)で誕生

桐生市織姫町の桐生厚生病院ですが、母親の実家が笠懸村です。
新潟出身の歌手の父と群馬出身の母の長男として誕生。
東京都世田谷区在住。
大々的に売れていたわけではないのと、父親はあんまり家にも帰ってこずお金も入れなかったようで、当時の生活は相当大変だったと聞いています。


といっても、リンガースとしてのデビュー時には岩下志麻主演の映画で西村晃や緒形拳と共演してたり、「こころがわり」はオリコン入りしていたようです。びっくり…


「こころがわり」はオリコン入りしていただけあって最近のカラオケにあるようですが、個人的には「恋はふりむかない」のほうが好きです。いまの時代に聴いてもなかなかよい曲。
 

1973
横浜市中区根岸町に転居

目の前には日石のタンクがありました。隣の不動下公園でヤ○ザの愛人の子供と一緒に遊んでいたとか…

 

1975
群馬県前橋市広瀬町に転居

物心ついたときにはすでに群馬の人でした。前橋市南部にある、巨大団地群の街です。

 

1975.4
広瀬幼稚園入園

(群馬県前橋市広瀬町3-32-1)

1978.3
広瀬幼稚園卒園

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1978.4
群馬県高崎市乗附町に転居

乗附町=「のつけまち」と読みます。
山の上で周りには商店もなく、ヘビ、キジ、ムカデ等がよく出没します。
唯一よいことは、夏の高崎花火がきれいに見えること(ただし年1回のみ)。

1978.4
高崎市立片岡小学校入学

(群馬県高崎市片岡町2-12−1)

当時、1学年7クラスもあった超マンモス校でした。
 

1979.4
高崎市立乗附小学校に転校

(群馬県高崎市乗附町155)
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片岡小学校の児童数の増加によりできた新設校で、田んぼと畑ばかりのところに突然学校がありました。
当時の校長は「子どもは元気に遊ぶ」が教育方針だったようで、勉強より遊び重視。校地の横で畑を耕していました。
 

1979.9
水泳を始める

水が怖くてプールに入れない子供だったため、親の勧めで群馬スイミングスクール(※)に通い始める。なぜか水泳大好きになってしまい、校内の水泳大会では1〜2位を争っていました。

※ 高崎市飯塚町にあったスイミングスクールですが、少子化等の影響で2016.6に営業終了
 

1984.3
高崎市立乗附小学校卒業

 

1984.3
高崎市立片岡中学校入学

(群馬県高崎市片岡町1-14-1)

自転車通学でしたが、登校に10分、下校に30分かかりました。
「部活は水泳部!」と心に決めていたのに、吹奏楽部の先輩に拉致されそのまま入部。
 

1986.4
群馬県前橋市西片貝町に転居

両親が離婚したので…

引っ越すときに近所のおばさんが、「これ息子のだけど」とBOØWYのレコードをくれました。
当時は「息子の持ち物を勝手にくれていいのか?」と思っていたのですが、「息子が出したレコード」という意味だったことを後で知りました。

これ以降まったく父親とは直接会っていませんが、まだ歌手で生きてるらしく、「エディー田中」で検索したら出てきます..
 

1986.4
前橋市立桂萱中学校に転校

(群馬県前橋市上泉町175)

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桂萱=「かいがや」と読みます(PCでは変換してくれません)。
 

1987.3
前橋市立桂萱中学校卒業

 

1987.4
群馬県立高崎商業高等学校入学

(群馬県高崎市貝沢町1970)

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長年生活した高崎の学校に進学(部活やりたさに選んだだけ…)
通っていた当時は近所にほとんど建物がありませんでした。
 

1988
群馬県前橋市城東町に転居

 

1990.3
群馬県立高崎商業高等学校卒業

 

1990.4
千葉県市川市国府台に転居

大学の寮に入りました。おかげで部活で「りょうちゃん」と呼ばれるようになりました。
国府台=「こうのだい」と読むことを、引っ越してから知りました。
 

1990.4
千葉商科大学入学

(千葉県市川市国府台1-3-1)
 

1991.3
千葉県市川市市川に転居

大学の近所で一人暮らしをはじめました。
大学の最寄駅近くだったので、一人じゃないことがほとんどでした。
 

1993.6
東京都武蔵野市桜堤に転居

一時実家に戻ったあと、伯父の家にお世話になる。 桜堤団地という団地で、名前のとおり春の桜はすごかったです。
団地が昭和32年築なので、窓もサッシではなく木枠。
今はこの団地も建替済で今風の団地になりました。
当時住んでいた棟のあたりは民間に売却され、分譲マンションが建っています。
広大な敷地の小金井公園が近所で、夜のお散歩コースでした…w
 

1995.1
東京都世田谷区喜多見に転居

就職を機に伯父の家を出ました。
 

1995.2
東京都交通局入局

東雲(しののめ)の研修所で研修のあと、三田線新板橋駅で駅員をやっていました。
駅に配属された数日後に、あの「地下鉄サリン事件」が発生。
 

1995.8
東京都葛飾区堀切に転居

通勤時間短縮のために転居。
 

1995.11
東京都交通局を退職

土日が休みじゃないとなかなか吹奏楽が続けられないといので、転職を決意し、国家公務員採用3種試験を受験。
試験の手応えがあったので、結果が出る前に退職。
1次も2次も泊まり勤務明けだったのですが、試験が午後じゃなかったら、今は別の仕事をしていたかもしれません。
 

1995.11
東京都渋谷区に転居

退職して定収もなく、知人宅でお世話になることに…
大学の先輩のお父さんが三田で印刷会社をやっていたのでバイトをしつつ生活しました。わりとご近所だったので自転車通勤していました。
知人宅にパソコン(当時は珍しくMacも持ってた)があったのと、印刷屋さんでパソコンをいじることになったのが、巡り巡って現在の仕事に繋がっています。


 

1996.1
初めて海外へ行く

真冬のドイツ(デュッセルドルフ)へ…
耳ちぎれそうな寒さ…
さすがに旅行するシーズンではなく、教会も工事中で鉄骨で覆われてました。
当時ちょうど民営化されたばかりの郵便局を見てきました。
日本語以外まったくわからないので、ドイツ語を一言もしゃべることなく、滞在中によく行った店は日本語の通じる日本料理屋「edo」でした。


 

1996.4
郵政省入省 大手町ビル内郵便局に勤務

入りたては近隣の局をぐるぐる回りつつ仕事をするので、毎週勤務地が違いました…
 

1996.5
横浜市港北区綱島西に転居

広尾の知人宅が引っ越したので、そのまま一緒に移転。
これがきっかけで神奈川で音楽活動を続けていくことになりました。

1996.11
鉄鋼ビル内郵便局に転勤

東京駅八重洲北口近くにある郵便局です。
住民は0なので、お客さんは企業ばっかり…
あとは昼休みに用を済ませる人。

2012年3月ビル建て替えにより閉鎖、その後に手続的には廃止され、建て替え後のビルに別の局(日本ビル内局の移転、鉄鋼ビル局に名称変更)として復活しました。


 

1997.1
神奈川県鎌倉市由比ガ浜に転居

収入も安定してきたので、一人暮らしに戻りました。
横浜市内の楽団に入ってしまったこともあって、県外に出られなくなってしまいました。
関内と鎌倉を天秤にかけた結果、なぜかこっちを選択。
家の前の道は石畳でした(車が入れず引越が一苦労)
東京駅まで横須賀線で1本なので通勤はわりと便利でした。


 

1998.2
川崎市麻生区虹ヶ丘に転居

抽選に当たったので2DKの団地に引っ越し。
最寄り駅4駅! でもどの駅も約3km。
まさに陸の孤島でした…
でも職場まで電車は1本。
当時、地下鉄延伸の署名にも協力しましたが、団地の隣に東急バス虹が丘営業所があり、朝は2〜3分に1本、深夜1:00(電車の終電に接続)までバスが運行していて(超ドル箱路線と言われていました…)、特に困りませんでした。


 

1998.3
創価学会の執拗な勧誘にあう

一生のうちで一番恐ろしい出来事ですが、私を勧誘するなどというふざけた団体は一生許しません。
 

1998.4
原付運転免許を取得

起伏があまりに激しくて自転車が役に立たず、生活のために取得。
原付を持ってみたら結構便利で、行動範囲がかなり広が理ました。
 

1998.9
中央郵政研修所に勤務

中堅科という訓練のため、4ヶ月間研修所に閉じこめられる。
住居手当を含むすべての手当が無くなくなり、「基本給ー(寮費+税金)」が手取りだったので赤字生活。(家の家賃を払うとすでに赤字…)
ここまでの貯えを使い切りました。
 

1999.1
世田谷区の玉川郵便局総務課に転勤

4ヶ月の監禁生活ののち現場復帰し、集配普通郵便局へ。
ここでは、ずっと会計関係の仕事で、長らく切手の管理、車両の管理、ユニフォーム管理、支出事務、職員の旅費支給とかをやっていました。


 

1999.11
普通車の運転免許を取得

異動先が集配郵便局ということで微妙に必要に迫られ、教習のスケジュールを詰め込んで2ヶ月で取得。
お世話になったのは東急自動車学校。
当時は上野毛の多摩川沿いにあって、教習コースが郵便局の受持区域だったので、道を覚えるのにも役に立ちました。
今は唐木田に移転してしまったようです。
 

2001.1
省庁再編 郵政事業庁

仕事上、特に変化は起きず…
 

2001.5
横浜市神奈川区神大寺に転居

丘の上の高層住宅のため、冬は毎日群馬のような突風が吹いていました。
洗濯物が数回とばされ行方不明のままです。


 

2002.7
緊急入院

体調不良のため横浜逓信病院に行ってみたら、その日に即入院になりました。
急性肝炎で1ヶ月寝たきりの入院生活を送る。
入院してからしばらく改善の兆しがなく、まじめに「このまま死ぬんじゃないか…」と思いました。
おかげで主任への昇格が1年遅れました(笑)
 

2003.4
公社化 日本郵政公社

ここでも、仕事上、特に変化は起きませんでした。
 

2003.8
事故死の恐怖

首都高横羽線で目の前を走るトラックから積荷(鉄パイプ)が落下してきて、なんとか避けたものの、これが転居と車を手放すきっかけになりました。
途中から鉄パイプを引きずり始めて火花も出てきてたんですが、車間距離って重要!(笑)
ちなみに、トラックは気が付かずそのまま走り去って行きました。
料金所で通報したけど、後ろの車は大丈夫だったんだろうか…
 

2004.2
横浜市中区海岸通に転居

駅から遠く、仕事から帰ってくるとバスが終わっていて、頻繁にタクシーを利用する状態だったため、ほとんど乗らずに維持費だけやたらかかる車を手放して、駅近に転居。
電車で必ず座れることが最大のメリット。
排ガスで微妙に空気が悪いのと騒音とベランダがないのは我慢。
長屋みたいに全世帯の洗濯物干し場が屋上にあって、突然の雨の時は困ったのですが、となりの家のおばあちゃんが取り込んでくれたりしました。
近所に万国橋という橋があり、みなとみらいが一望できるので、たまにドラマの収録などをやっていました。


 

2004.5
東京支社に転勤

いまに至る人事システムとの関わりの始まり。
再び大手町へ戻ってきました。
通勤経路が横浜乗り換えの東海道線通勤で、せっかく馬車道に引っ越したのに座れる時間がたったの5分になってしまいました。
麻布台へ移転後はしばらく更地で駐車場になっていましたが、現在は郵政の本社ビルが建っています。


 

2005.5
職場が麻布台に移転

昭和の初めのころに建てられた建物に移転。
歴史的建造物としても紹介されてます。
東横線通勤に戻れたので朝の通勤はたいへん楽になりました。

この建物も再開発で取り壊され麻布台ヒルズになりました。


 

2006.12
本社に転勤

年度末までのレンタル移籍の予定がズルズルと年度越え。
 

2007.5
東京都台東区に転居

本社での残業が半端なく、通勤時間を30分以内にすると決めて都内に転居。
港区、中央区、品川区、渋谷区、新宿区、江東区…とたくさんの物件を回った結果、通勤時間が最も短縮されるここに決定。
困ったことに、職場では「本社でたくさん仕事をしたいから」と誤解を受けました。
 

2007.9
東京支社に転勤

「レンタル」の約束を果たすため、予定より半年も遅れて元の職場へ復帰。
10ヶ月の間になにもかもが変わりすぎていて、浦島太郎状態でした。
 

2007.10
民営分社化で郵便局株式会社の社員となる

東京支社の研修担当になりましたが、自分は何ひとつ資格を取得してないのに、管内の社員に資格試験を取らせるための企画や事務をやっていました。
 

2008.3
持株会社に出向

人事のシステムでいろんなことが起きていたので、結局本社に戻ることになりました。
 

 

2009.4
持株会社に転籍

まさか退職届に印鑑を押すことになるとは(笑)
 

2014.11
東京都中野区に転居

中野区と言っても上鷺宮なので駅は富士見台。
練馬より遠いので通勤時間が倍増。
 

2015.3
東京都豊島区に転居

通勤時間短縮のために少しだけ都心に戻ってきました。
サンシャイン60のご近所。
 

2016.6
東京都江東区に転居

池袋は治安上いろいろあったのと、さらに通勤時間を短縮するため転居。
江東区の臨海部という陸の孤島ですが、通勤電車でいつも座れるのが最大のメリット。


 

2018.9
職場が大手町に移転

もともとの東京支社があった場所に立派なビルが建ち、本社が移転。
入省以来3度目の大手町勤務。


 

2019.4
IT子会社に転勤

2度あることは3度あって、大手町勤務は短く半年ほどで終了しました。
東新宿勤務になって通勤時間が倍増しましたが、通勤電車で座れているので引っ越さないまま現在に至る。